宝物
重要文化財上下両宮
由比ケ浜辺の一ノ鳥居より望む鶴岡八幡宮。大臣山中腹に本宮、その麓に若宮が鎮座する。鎌倉の地勢を考え、遠近法を取り入れた構図、さらに朱の漆、銅葺き屋根の色合いを重ねた景色に格調高い昔からの鎌倉の美しさがある。

鶴岡八幡宮は、創建当時は鶴岡若宮と称されていた。治承4年(1180)由比郷にあった鶴岡宮を源頼朝公自ら神籤を取り現在地(小林郷北山)に奉遷し、源氏の氏神として、また関東の総鎮守として崇敬の誠を尽くした社である。

建久2年(1191)3月、町屋から火災が起こり社殿を焼失してしまう。頼朝公は直ちに大臣山中腹をけずり上宮(本宮)を、従来の社殿のところに下宮を建てて若宮とし、現在の上下両宮の姿としたのである。その後幾度か火災等被害を蒙るが、歴代武家政権の崇敬により見事に再建されて来たのである。中でも豊臣秀吉や、徳川家康、徳川秀忠両将軍による修理造替は注目されるものがある。関東は天正18年(1590)小田原城開城と共に近世を迎えるが、秀吉は直ちに家康に当宮の修理造営を命じる。その時の指図が社蔵の「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」(重文)である。それによると、若宮は現在の位置に描かれ、本殿は、内部を内陣と外陣に分けた三間社流造となっている。家康は、文禄元年(1592)の若宮修理後さらに八幡宮全体の造替を計画したが、その志は秀忠に受継がれ、寛永元年(1624)11月15日上下両宮の正遷宮が行われたのである(寛永の御造営)。江戸幕府の威信をかけた面目一新の造替であり、日光東照宮とも通ずる壮観が形成されたのである。

江戸時代を迎えると建築技術も進歩し木割法も確立されて、大規模な社殿が建立される様になる。中でも本殿、幣殿、拝殿をそれぞれ連棟にする権現造が主流となり、寛永の造替にて若宮は本殿五間社流造による権現造とされたのである。文政4年(1821)の火災にて、残念ながら上宮本殿は焼失してしまうが、文政11年(1828)に十一代将軍家斉によって再建され、本殿九間社流造による権現造とされたのである。
本宮イメージ
本宮西面
若宮イメージ
若宮西面
若宮イメージ
若宮背面

もどる
上へ 次へ
Copyright(c)2002,TheTsurugaoka hachimangu Shrine.All rights reserved.