歴史のはなし〜 鎌倉人物志
源義経
源義経イメージ
源義朝の九男で、母は常盤。幼名は牛若といい源頼朝公の異母弟にあたります。生後間もなく父義朝は平治の乱で敗死。母とともに平家方に捕えられましたが、助命されて鞍馬寺に預けられました。
しかし成長すると平家打倒を期して同寺を脱走。奥州平泉の藤原秀衡を頼っていましたが、治承4年(1180)兄頼朝公が打倒平家の軍を挙げたと聞くや、直ちにその軍門に参じ、駿河国黄瀬川で頼朝公と対面しました。

寿永2年(1183)頼朝公の代官として異母兄の範頼とともに西上。翌年には京の木曾義仲を近江に討ち、つづく平家との一ノ谷における戦いでは世に「鵯越の逆落し」(ひよどりごえのさかおとし)と称される奇襲戦法によって平家方に壊滅的な打撃を与えました。ついで屋島でも果敢な戦いぶりによって勝利を収め、ついには壇ノ浦において平家を滅亡させ、平家打倒の悲願を達成したのです。

しかしこの追討の最中、後白河法皇の意のままに頼朝公の認可を得ずして検非違使・左衛門少尉に任官したことが頼朝公の勘気に触れ、さらには軍奉行として従軍していた頼朝公の腹心・梶原景時との対立もあって、頼朝公・義経の兄弟間の溝は次第に深まっていきます。

文治元年(1185)5月、捕虜とした平宗盛らを護送して鎌倉に赴きましたが、頼朝公は義経が鎌倉に入ることを拒絶しました。義経は有名な「腰越状」を認めて頼朝公の許しを請いますが、許されることはなく、空しく京へ引き返すほかありませんでした。しかし京で頼朝公方の土佐坊昌俊による襲撃を受け、ついには頼朝公への反逆を決意します。ところが味方を集めることが出来ず、九州を目指しましたが海難にあって失敗。畿内各地を転々とした後、再び少年時代を過ごした奥州平泉へと赴きました。この間、愛妾の静と離別、彼女は捕らえられて鎌倉へ送られることとなります。

義経は平泉で秀衡の保護下にありましたが、間もなく秀衡が没すると、鎌倉からの圧力に屈したその子泰衡によって衣川の館を襲撃され、ついに自刃して果てました。時に文治3年、義経は31歳でした。

その華々しい武勲にもかかわらず、非業の最期を遂げた義経の生涯は、後世の人々の同情を呼び、今日でもこのような心情を指して「判官びいき」といいます。 また江戸時代には能や歌舞伎のなかで「義経物」といわれる一分野を形成するほどの人気がありました。 なかでも義経の死を惜しむ人々の感情は、義経が逃れて大陸へ渡り、後のチンギス=ハーンになったという説をも生みました。

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