歴史のはなし〜 鎌倉人物志
三浦義明
三浦義明イメージ
三浦半島全域を本領とした豪族三浦一族の総帥で三浦大介と呼ばれます。
源頼朝公挙兵当時の義明はすでに高齢であり、実質的には嫡子の義澄が三浦一族を主導していました。

三浦氏は頼義の時代から源氏の家臣であり、頼朝公にも当初から心を寄せていました。頼朝公の挙兵計画はこの三浦一族の来援を頼みとしたものでした。
しかし直前に起こった爆風雨の為に、三浦勢は頼朝公と合流することが出来ず、頼朝公は石橋山で敗退することとなりました。

石橋山における頼朝公の敗走後、三浦勢は三浦へ引き上げましたが、この途次、由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍と戦闘を交えた為、河越重頼・江戸重長らの来援を得た畠山勢三千余騎によって本拠地衣笠城を囲まれることとなりました。
衆寡敵せず落城を悟った義明は一族を房総半島に脱出させ、自身は城を枕に壮烈な戦死を遂げました。
このとき共に脱出することを勧める義澄に対し、「自分は源氏累代の家臣として、いま貴種再興の時に出会った。
これほど喜ばしいことはない。もはや歳八十を過ぎ、余命も知れたものである。この老体を犠牲として、子孫の勲功に替えよう。」と応え、城に残って義澄らの脱出を援護したと『吾妻鏡』は伝えています。

義明戦死後、義澄を棟梁とする三浦勢は房総で頼朝公との合流を果たし、以後再起した頼朝公勢の中核を担うこととなります。 その中には初代侍所別当となる和田義盛も存在します。

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