歴史のはなし〜 鎌倉人物志
鎌倉殿 源頼朝公
源頼朝像(神護寺蔵)イメージ
源頼朝像(神護寺蔵)
源頼朝公は、久安3年(1147)源義朝の第3子として京都で生まれました。
母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘であったので、出生地は熱田旗屋町説もありますが、当時の父親の生活環境からしますと京都の出生として誤りないようです。

13歳で初陣した平治の乱(1159)では、むなしく敗れ父とともに東走し途中関が原の雪深い山中で父たちの一行とはぐれたところ、平頼盛の家人弥平兵衛宗清に捕えられて京都に護送されます。ここで頼朝公は、頼盛の母で平清盛には継母にあたる池禅尼の涙ながらの歎願により一命を取りとめられました。

伊豆国蛭ヶ小島へ流罪となった頼朝公は、それから20年の歳月を伊豆で過ごすこととなりますが、『吾妻鏡』は配所の生活を、その始めは写経・読経の毎日であったが、日が経つほどにこの地方の豪族たちと接触する機会も増えていったと伝えています。

源頼朝イメージ 頼朝公は、治承4年(1180)8月、平家打倒に立ち上がりました。
まず平家一門として威勢を振っていた伊豆国目代の山木兼隆を討ち、石橋山の合戦に臨みましたが、多勢に無勢で大敗し山中の洞窟にひそむところを、敵将梶原景時の計らいで救われ安房国へのがれました。
房総に着いた頼朝公は、千葉常胤の「房総はさしたる要害の地にあらず。また義朝ゆかりの跡でもない。すみやかに相模国に出ずべし。」の言葉にさとされ、多くの武将とともに治承4年10月6日相模へ赴いたのでした。そして父祖以来源氏ゆかりの地である鎌倉へ入りました。

鎌倉での頼朝公は、まず鶴岡八幡宮を祀って源氏の氏神とし、同時に鎌倉の中心にすえて都市鎌倉の街造りを進めました。寿永元年(1182)8月、妻政子は長男の頼家を産みます。
妻の安産を祈り鶴岡八幡宮の参道である若宮大路(段葛)が造られたのは、この時のことでした。
文治元年(1185)の春、頼朝公は壇ノ浦に平氏を滅ぼし、名実ともに“鎌倉殿”として武家政権の基盤を築くことになります。
建久3年(1192)には、征夷大将軍に任ぜられました。

正治元年(1199)正月13日、頼朝公はにわかに病を得て世を去りました。時に齢53歳、武士の府・鎌倉の街の礎を固め、“鎌倉殿”として武家政権の基礎を築いた頼朝公でしたが、その死はあまりにも早く突然でした。

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