歴史のはなし〜 鎌倉人物志
鎌倉右大臣 源実朝公
源実朝(坂内青嵐筆)イメージ
源実朝(坂内青嵐筆)
建久3年(1192)源実朝公は源頼朝公の次男として誕生。幼名を千幡といいました。
当時の“鎌倉殿”頼朝公は壇ノ浦に平氏を滅ぼし国内を平定し、征夷大将軍に任ぜられるなど権勢の絶頂にありました。
もちろん実朝公も、この偉大な父のもと何不自由なく幼少期を過したことでしょう。

ところが実朝公八歳の正治元年(1199)父頼朝公の突然の死とともに実朝公をめぐる周囲の状勢は一変しました。
頼朝公亡きあと、その主導権をめぐる争いは重臣梶原景時をはじめ、兄頼家の長子一幡、比企能員、さらには兄頼家、畠山、和田両一族等次々と、実朝公の母政子と外戚である北条氏の手によって殺戮されていきました。そんな状況の中で実朝公は多感な少年期を過ごし、その目は政治とは係わりの薄い世界に専ら注がれ、その鋭い感受性は和歌に最高度に発揮されました。

建保7年(1219)1月27日右大臣拝賀式当日、昨夜来の雪で真っ白に化粧した鶴岡八幡宮石段の砌にて、別当公暁により28年の短い生涯は閉じられました。

この事件をめぐる陰謀の数々も今となっては真相を知る術もありませんが、自らの行く末を予感しながらも悲劇の路を歩まねばならなかった実朝公の孤独な想いをこの一首に認めています。
 出でていなば主なき宿となりぬとも
 軒端の梅よ春を忘るな


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