歴史のはなし〜 鎌倉人物志
文覚
文覚イメージ
文覚は俗名を遠藤武者盛遠といい、鳥羽天皇の皇女上西門院に仕える滝口の武者でしたが、出家して文覚と号しました。
出家の原因については、同僚の源渡の妻袈裟御前に懸想し、渡を殺すつもりで身代わりとなった袈裟を手に懸けてしまったことにあるといわれます。

出家してからは熊野をはじめ各地の霊場で荒行を重ね、仁安3年(1168)には京都に戻り、高雄の神護寺に住みました。
やがて文覚はこの高雄神護寺の再興を発願し、承安3年(1173)4月、院の御所である法住寺殿に参向して後白河法皇との直談判に及び、荘園の寄進を強要。捕らえられて伊豆へ流されました。
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この配流先の伊豆で折しも幽囚の身である源頼朝公に見え、父義朝の髑髏を示して決起を促したといわれています。

その後治承2年(1178)には許されて帰洛。再び神護寺再興の運動をはじめ、後白河法皇や頼朝公の協力を得て、神護寺再興がなった後も東寺、西寺、高野山、四天王寺などの修営に関与しました。また東大寺大仏殿の再建に携わっていた俊乗房重源を鎌倉に取り次ぐなどしてこれを援助しています。

頼朝公との関係は深く、寿永元年(1182)鎌倉に下り、頼朝公の御願で江ノ島に弁才天を勧請し、奥州の藤原秀衡調伏の祈祷を行ったといわれます。しかし頼朝公没後2度流罪に処され、配流先の九州で没したといいます。

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