歴史のはなし〜 鎌倉人物志
北条政子
北条政子イメージ
政子手箱
伊豆の豪族であった北条時政の娘として生まれた政子は、最初は山木兼隆という平家の豪族に嫁ぐ予定でした。しかし運命の悪戯はこの政子と流人であった源頼朝公とを熱い恋に落ちさせます。夜の大雨のなか、政子は山木のもとを逃れ頼朝公の居所へ走りました。頼朝公の器量を認めた時政は二人の仲を許し、頼朝公を支援する腹をくくり、ここに頼朝公挙兵の下地が整いました。

曲折を経て関東をほぼ制した頼朝公は御台所(みだいどころ)という正式な形で政子を迎え入れました。二人の間には大姫、三幡という女子、頼家、実朝公の男子があり頼朝公が政子の安産を祈ったとされる政子石が鶴岡八幡宮に残っています。

頼朝公の死後は時政や弟義時とともに幕府の安定・北条氏の政権基盤の確立に努めました。しかし幕府の存続の為とはいえ、かつて鶴岡八幡宮の廻廊で義経を追慕する舞を舞った静御前に褒詞を与え、怒る頼朝公をなだめたことのある政子の胸中は複雑であったに違いありません。

政子の特筆すべき出来事の一つは承久の乱(1221)の折りです。政子は御家人たちに向かって亡き頼朝公の御恩を説き、団結を呼びかけました。この活躍が大きく取り上げられ、彼女は「尼将軍」と呼ばれるようになります。中世のダイナミズムを体現した女性の代表である政子は70歳で亡くなり、墓は現在鎌倉の寿福寺にあります。

もどる
上へ 次へ
Copyright(c)2002,TheTsurugaoka hachimangu Shrine.All rights reserved.