歴史のはなし〜 鎌倉人物志
大江広元
大江広元イメージ
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大江広元邸跡
11世紀後半の大学者大江匡房の曾孫にあたります。明法博士中原広季の養子となり、のち大江姓に復しました。
朝廷に出仕して少外記まで進みますが、源頼朝公の招きに応じて元暦元年(1184)ごろ鎌倉に下ったと思われます。

頼朝公の信任厚く同年10月、公文所(のちの政所)の開設に伴いその別当となり、多くの政策に関与してその非凡な政治的手腕を発揮、幕府の基礎固めに尽力しました。
なかでも元暦2年の源義経追討を機に諸国に守護・地頭の設置を献策したことは特筆されます。
またその出身のためか公武間の折衝にも目覚しい活動を示し、三善康信・二階堂行政と並んで鎌倉幕府の事務官僚の中心的存在でした。

頼朝公の死後は北条氏との協力関係を強め、以後北条氏によって展開される粛清劇でも専ら北条氏と協同歩調をとっています。

建保5年に出家して覚阿と号しましたが、その後も幕府の長老として幕政に重きをなし、将軍を補佐しました。
特に承久の変に際しては、京都進軍を主張し、この積極策によって上皇方を一掃、武家政権の基盤を確固たるものとしました。

広元は執権政治の安定期を迎えた嘉禄元年(1225)、鎌倉で没しました。78歳でした。

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